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執筆者の写真K.Matsui

「新哲学」が開く新世界

更新日:2023年4月30日

【哲学は死んだのか?】


あなたがイメージする哲学とは、どんなものでしょうか?

古代ギリシャ人のイメージでしょうか?

それとも、眉間にしわを寄せながら意味不明な言葉を羅列する人たちのイメージかも知れません。


どちらにしろ、少々退屈なイメージが浮かんできます。

なぜでしょう?


哲学は「この世界は何なのか?」という問いから始まりました。

やがて、「人は、果たして、この世界を認識できるのだろうか?」に変わります。

更に、「この世界に絶対的な真実などあるのだろうか?」「いや、ないのではないか」

そして、「こんなことを考えている私とは何か?」「私たち(社会)とは何か?」という問いに変わっていきます。


結局、これら哲学的な問いに対する回答権は物理学・化学・生物学・心理学・社会学などへバトンタッチされ、人類は大きな進歩を遂げました。

このように哲学は沢山の優秀な子供を産んで、自らは第一線から身を引いたかのように見えます。


一方、既存の哲学は、まるで歴史博物館のように古い時代の遺物を展示するのみです。

新しい知見があっても、「この世界の原理を理性によって解き明かす」という哲学本来のダイナミックな路線から外れ、科学からこぼれてしまったテーマを拾い集めているかのようです。


「あなた」が目にする「哲学者」気取りの人々の言葉は、どれも昔の哲人の請け売りに過ぎないことでしょう。それらは、哲人の著書を読めばわかること。

真の「哲学」は「自分の頭で考える」ものだと思うのです。


ソクラテスの死

哲学は死んでしまった。


果たして、そうなのでしょうか?


【あなたの中でくすぶる哲学の灯】


古代ギリシャでは「時間は存在しない」と看破した人がいました。

原始仏教においては「空」の概念を発見していました。

また、最近の映画・音楽・漫画などのエンターテイメントでは「マルチバース」や「パラレルワールド」といったテーマがあふれています。


人類は遥か昔から、現代の最新科学のもたらすイメージを先取りしているかのようです。

これは何を意味するのでしょう?


これらの事実が意味するところは、「人類は哲学を常に指向する生き物」だということのようにみえます。

人は、難しい物理理論や数学の知識はなくとも、生まれてから死ぬまで常に「自分は何者で、どんな世界に存在しているのか」それを理解したい欲求を持ち続けるものではないでしょうか。


そうではないと言う人も、生きるための忙しさの中で、その欲求が背後に隠れてしまったに過ぎないと思うのです。


何故なら、まだ忙しくなかった子供のころには、あなたも哲学をしていたはずだからです。

【新哲学の時代が始まる】

哲学から派生・専門化された多くの学問は、担当する分野を更に派生・専門化し、今や膨大な数の学問に分かれています。


それは、まるで単細胞生物が組織化して多細胞生物となり、更には社会集団を構築していく過程のようです。


人の身体の場合は、元々たった一つの受精卵ですが、これが分化して専門の役割を持つ組織を構成し、やがて人体となっていきます。


この時、数ある組織を束ねコントロールする部分である「脳」が必要となります。

「脳」があって初めて内臓や手足などの運動機能が有機的に結びつき、人体の持つ本来の機能が発揮されるわけです。


これと同じ様に、多くの学問体系を束ねコントロールする学問領域があって、初めてそれぞれの学問領域が有機的に結びつき、学問の持つ本来の機能が発揮されるのではないでしょうか?

現在は、それらが統制を失いバラバラに活動している状態です。


このブログでは、各学問を統制する学問領域のことを、「新哲学」と定義します。


新哲学においては、その他の学問をツールとして扱います。

よって、新哲学を研究する者は、必ずしも各分野の専門家である必要はありません。

数学も物理学も、既存の哲学すらも、それについての専門家である必要はないのです。


必要なのは、各学問領域の研究成果を大局から俯瞰し、「この世界の原理を理性によって解き明かす」という方向性をもって論理的に再構成し、対象となる事物の本質を抜き取る目線です。


『考えるな、感じろ』

ある伝説的な武術家の言葉です。


「思考」は「その人の頭の中に蓄えられた過去の情報」に依存します。

これは、質的にも量的にも、かなり限定的な情報です。

これに対して「感覚」は思考しません、ただ「感じる」のみです。

但し、「感覚」には情報の限界がありません。(このお話は、後に詳しく考察します)


そして、「思考」の基礎となる「限定的情報」は「既成概念」を創り出します。

「既成概念」は自身の環境を把握する際の「フィルター」の役割を果たします。

「フィルター」は実在する環境の一部分を切り取るため、多くの情報はカットされます。


このように「思考」は、どうしても「一面的」性質を持たざるを得ません。

これに対し、「感覚」は、「多面的」です。


つまり、先述の武術家の言葉が伝えたかったことは、「思考などというフィルターを通さず、頭を空っぽにして、全ての情報を受け入れるべきだ」ということではないでしょうか。


しかし、「専門家」と言われる人々の多くは、その勉強や研究の過程で、自身に強力なフィルターを掛けてしまいがちです。

これは「専門」の定義上、仕方のないことです。限られた範囲の対象について思考を深化させることが「専門」たる所以だからです。


そうであるならば、「各専門領域」を束ねる仕事は、「各専門家」以外の人でなければならないはずです。そこに「新哲学」の存在意義があるのです。


「あなた」が2歳くらいの時、言葉を話し始めました。

それは、少しずつ語彙を増やしていく緩慢なものではなく、急激な発達です。

それまで聞いて学んでいた「音」という「点」が、頭の中で結び付けられ「線」として繋がった時、それが、「言葉」となって爆発的に出てくるのです。


古代の「哲学」から枝分かれして発展した多くの「学問」の成果は、今、「点」として並んでいる状態です。

そろそろ、これを一本の繋がった「線」として、「言葉」にする時代が来たのではないでしょうか?


このブログでは、新哲学の視点から「この世界」「あなた」の真実について、解き明かしていきたいと思います。

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